日本人はなぜ可愛いものが好きなのか?
これは独自の研究になります、それを前提に読み進めて貰えると助かります。
文化的要因
空気を読む
日本には「空気を読む」という文化があります。自分の意見よりもその場の意見に合わせる、悪目立ちしないように気を使う、等。
その原因は村社会にあり、村というコミュニティーから外れると生きていく事が出来なかった。村八分に合うのが死を意味するのと同じだった。そんな時代が長く続いたからだと言われています(真偽は分かりません)。
この傾向は現在も続いており、「ぼっち」(一人ぼっち)という言葉が自虐的に、もしくは他人を揶揄して使われる。他にも「KY」(空気読め)という言葉が使われるのもその傾向でしょう。
「ぼっち」や「キョロ充」という言葉が広まるのは、日本人がそれだけ周囲の人間関係を気にしているという事の表れでしょう。
対人関係に気を使う
空気を読むという事は周囲に気を配らなくてはいけない、なので人付き合いに非常に気を使います。
度々言われる「日本人は議論が出来ない」「自分の意見を言わない」というのもこれに当たるのではないでしょうか。相手を傷付けないように話す、揉め事が起こらないようにする、等。
しかも、場によって読むべき空気が違ったりするので、人によっては更にストレスを抱え込む事になるでしょう。
落ち着くものが好き
その結果としてストレスのない関係を求めます。それは人付き合いであったり物や動物との関係であったりと、波風が立ちそうな相手よりも気楽な付き合いを求める傾向がある。
つまり、可愛いとは対立を起こさない関係、いざこざを生まない関係、それを築ける相手だと言う事が出来ます。対立やストレスを生む関係より、安心できて気楽な関係を無意識に求めてしまう傾向が日本人には強いのではないかと考えます。
可愛いの表面化
と、ここまでは精神面の話です。つまり可愛い存在というのはその人にとって癒しになる・慰められる存在であればいい。だから見た目は関係ないはずです。
しかし見た目の可愛さを求める人は多数居るように思われます。その原因は何か?
恐らくですが映像表現の影響だと思われます、映像表現の普及によって可愛いが表面化した。
それが写真なのかテレビなのか、はたまた浮世絵までさかのぼるのかは分かりませんが。とにかく、可愛く思える存在は見た目も可愛い方がいい、と変化していったのでしょう。
その傾向は特に映像情報が増えた現代の社会では顕著に見られると考えてもおかしくはないはずです。
結論と蛇足
日本人はなぜ可愛いものが好きなのか? そんな疑問をグーグル先生にぶつけてみたところ「アニメのせい」とか「ロリコンが多いから」という身も蓋もない回答が返って来ました。それらに対する個人的な反発です。
可愛いものが好きな気持ちに男女差はそれほどないでしょう(当然、個人差はあります)。それに何でもかんでもアニメのせいにするなよ、という憤りもあります。
しかしそんな特殊な文化も西洋化によって徐々に変化しています。最近は集団よりも個人を中心とした社会にシフトしようとしているようです。それを個人化といって良いのか、孤立化と言っていいのか分かりませんが。
その辺りついてはまた言及するかもしれませんが、そのせいでこの可愛いもの好きの傾向にも少し変化があるのかもしれません。
まぁ、萌えを理解できないアニメ好きを自認しているので、その辺りの変化には複雑なものがあります。